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エイサーの歴史



エイサーも先の大戦で多大なダメージを受けました。終戦後、中部を中心に徐々にエイサーが復活し、時代とともに、新たなエイサーが生まれるようになりました。

戦前のエイサーは盆のウークイ(旧7月15日)の先祖霊送りの日に踊られていました。
その頃、男性は芭蕉布の着物に、わら帯、わら襟、わら鉢巻、女性は芭蕉布もしくは紺地の着物にわらか白布の鉢巻という地味なものでした。
人々はまずムラヤー(集会所)に集まり、そこから家々を回りました。この踊り手達が『エイサーシンカ』と呼ばれていました。
エイサーシンカは盆に現れる餓鬼のことで、この世のものではないとされていたので、エイサーシンカ達は笠や手ぬぐいでほっかむりをして、顔を隠していました。
沖縄では、現世に何か思い残すことがあって往生できなかったものが彷徨って餓鬼になる、と言われており、そんな餓鬼への供養の行為として「水の子(ミンヌク)」という、野菜のくずや米粉を入れたものを供えたのです。 それに由来して、エイサーシンカは回った各家で御供え物の餅やお菓子などをふるまわれ、酒をいただいたりなどしました。



盆に家々を回ったり、庭先で踊ったりしていたエイサーでしたが、1956年にコザ市(現在の沖縄市)で開催された「全島エイサーコンクール大会」がきっかけとなり、戦中戦後途絶えていたエイサーに大きな変化が起こり始めます。
曲目は念仏歌から流行りの民謡となり、踊る場所も家々の庭先から広場で大勢に見せるものへ変化しました。
振り付けも、戦前までは、手踊りが中心で、太鼓がいくつか加わるだけであったのに対し、現在では、大太鼓を打ち鳴らす勇壮なスタイルに変化を遂げていきます。それに伴い、衣装も変化しました。笠や手ぬぐいなどでほっかむりをしていた頭が、赤や紫のサージを巻くようになりました。着物は、白ズボンに白いシャツ、白黒の縦縞きゃはんに白布の靴、打掛を羽織って明るい色の帯を締めて長サージを締めた現在のエイサーの服装へとなっていきました。


沖縄では、旧盆の7月13日から15日に各地でエイサーの行事が催され、大変な賑わいをみせます。
旧7月13日は「ウンケー(お迎え)」と呼ばれ、先祖の霊を迎える日です。先祖の霊を迎えるために、仏壇を飾ります。まずは掃除をし、それから仏壇に生花やちょうちん、果物などを供えます。
14日は「ナカヌヒー(中の日)」と呼ばれ、三度の食事を家族と同様に供えます。また、間食などを供えたりすることもあります。
15日は「ウークイ(お送り)」と呼ばれ、先祖の霊を送る日です。ウークイは盆の行事の中でも特に大事な日で、ウンケーやナカヌヒーが出来なかった人も、この日は仏壇へと集まります。ウークイは先祖の霊になるべく長く居てもらおうということで、夜遅くに行います。お供え物を先祖の霊が入ってきたところへ持っていき、ウチカビという紙銭を焼き、「来年もまたいらしてください」と戸外へ見送ります。そしてこの時、先祖の霊が迷わず戻れるように、とエイサーを踊るのです。




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